光海君は即位すると破綻した
財政再建と現実的な外交施策を展開し、また党争の終結に力を入れようとしていた。
しかし党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。
その範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだ1615年まで続く粛清によって、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。
一方で弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金の間に挟まれ、二極外交を展開することになる。
一方、既に江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた。
また、民政では大同法を導入するなどの改革を行った。
しかし、光海君の性急な財政再建策や粛清は民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになり、1623年、クーデターによって廃位に追い込まれる。
1623年2月12日、光海君の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、光海君は宮廷を追放され廃位に追い込まれた。
西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立し、仁祖として即位させた。
この事件を仁祖反正と言う。
しかし党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。
その範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだ1615年まで続く粛清によって、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。
一方で弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた後金の間に挟まれ、二極外交を展開することになる。
一方、既に江戸時代に移行していた日本とは1609年に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた。
また、民政では大同法を導入するなどの改革を行った。
しかし、光海君の性急な財政再建策や粛清は民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的事大主義者などの恨みを買うことになり、1623年、クーデターによって廃位に追い込まれる。
1623年2月12日、光海君の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、光海君は宮廷を追放され廃位に追い込まれた。
西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立し、仁祖として即位させた。
この事件を仁祖反正と言う。
update:2010年02月22日
